平成2年卒 塩田勇 3年生編
三年生が引退し、ついに我々の代となりました。
役職決めについては、校内1階の視聴覚室だったと思います。
小島先生から私がキャプテン、バックスの今関がバイスキャプテン、マネージャーは井村がそれぞれ就任しました。
また、進学要員としてU谷氏が勉強の方で後輩の指導にあたることになりました。(私たちの代は赤点のヤツ多かったよな)
“私がキャプテンをやる”
すごく響きのいい音がどこからともなく聞こえ、期待で胸がいっぱいになった。
と同時に保善の歴史の中で1年に1人しかなれないキャプテンになることへの重圧が、私にのしかかりました。それは、30名いた同期をどのようにまとめるか、2年生も10数名しかおらずチーム全体のモチベーションが保てるか不安があったからでした。
そんな矢先、小島先生が重度の病気にかかり入院するというアクシデントがありました。私はキャプテンということで、新宿中央病院に何度も足を運び、練習メニューや実施したことを先生に伝えておりました。(ちょっとした企業戦士みたいですね)
この時、先生の代わりに指導してくださったのは、FWは昨年に引き続き、K原氏、YO氏、H氏、BKはE本氏でした。特にE本氏は朝練にも参加いただき、いつもバッキングアップ(当時はヘッドダッシュといっていたかな?)を何十本も!?していただきました。
この方にはよく走らされたことが印象に残っています。また、E本氏には武勇伝がいろいろあったようでよく話しを聞かされたとを思い出します。
しかし、先生が不在の中で、このような練習っていったい何でやっているのだろう?と思ってやっておりました。(いつも疑問だらけでした。)
なぜやっていたか?
それはこれをやれば必ず強くなるという信念、同期、下級生への見本のために、ただただやっていたと思います。
一方個人的なことについて、
スクラムは2年生の時、ケンガ(練習見学)で筋トレをしていたことでかなり力がつき、東京でも上位クラスであったと自負しております。むしろ、チーム内に強いヤツがいて、そいつらとのガチンコ勝負が大変でした。
さて、冬合宿を元加治で行い、OBの方の協力もあり、僕らの代は「無難」に終了しました。
後で振り返ってみると、OBの方の力はなぜ強いのか、なぜ玉際に強いのかまったくわからずのままでした。
この時、「ラグビーってどんなもの?」と私自身が理解し、みんなに浸透させていれば我々の代はバラバラになることもなく、2本目ともいがみ合うこともなかったと思います。
結局、合宿が「無難」に終わったというだけのあまり充実感もなく、平凡なままで新人戦に入りました。
トーナメントを順調に勝ち上がり、準々決勝で城北高校と対戦しました。(後に高校JAPANにもなった増保氏率いるチームです。)こちらは先生が未だ病にふせておられ、監督不在での試合でした。
チーム力がかなり拮抗しており、1点を争う好ゲームとなりました。保善のセンターI氏の空クロからチャンスが生まれ、そのまま右スミにトライを奪い4点先取しました。
そのまま試合は流れ、後半、城北に反撃、PGを決められ4-3となりました。さらに城北の猛攻を受けましたが、そのままホイッスルとなり、辛くも勝ちを拾いました。
準決勝は強豪大東文化一高と対戦しました。この時のメンバーは3年生13人、2年生2人という布陣でした。試合は相変わらずスロースタート、前半ですでに0-10くらいのスコアだったと思います。後半15分過ぎからエンジンがかかり、トライを奪ったがすぐ取られるという展開となりました。後半は敵陣で試合をしていたにもかかわらず点が取れませんでした。(というより取り方を知らないのです。)
結果、無情にもノーサイドのホイッスルが吹かれ、15-10で負けました。
新人戦を振り返って・・・
準々決勝、準決勝を戦って我がチームはラグビーをやることは強いが、ラグビーというスポーツをするにおいて、ルールを知らない、試合の仕方、勝ち方をあまりにも知らないと痛感しました。
春は恒例の松戸自衛隊で合宿がありました。合宿中、わざわざ法政大学のグランドまで行き、京都の花園高校と練習試合をしました。まだ春なのにすごくバランスの取れたチームで70点くらい取られたでしょうか?それより、我がチーム1番の井村が高校JAPANの江森氏に押されたことが一番ショックでした。3年の時はほとんど隣で組んできましたが、後にも先にもこの1回だけです。まあ、スクラムはともかく、なぜ同じ高校生なのにこんなにも差がつくのか?結局この疑問が解消されないまま春季大会に入りました。
が・・・練習といえば相変わらずスクラム、ラインアウトの基本練習、走るとダッシュやランパスの繰り返しでした。
それでは強くならないのに・・・。
体は強くなりました。気持ちも強くなりましたが、頭が強くならないまま、春季大会で再び城北高校と対戦することとなりました。今回は相手がよく保善を研究しており、バック3が弱いことを見て適時キック攻撃で敵陣での試合運びをされました。気づくといつのまにか自陣で試合をしていた印象があります。こうして徹底的に研究され弱味をつかれスコア的にはダブルスコアくらいで完敗でした。
試合後、先生はただ怒っているだけに見えましたが、自分たちはなぜ試合に負けたのかを分析しなかったことが我々の代で一番かけていた部分だったと今でも反省しております。
私たちもなぜ負けたのか真剣に考えていれば、この後来る花園予選での歴史的大敗はなかっただろうと思います。しかし、当時はそんな余裕もなく、“練習すれば強くなるんだ”という時代でしたので、意見がいえる状態ではありませんでした。
敗戦後、相手の選手が応援に来ていた女の子たちと「どこ行こうか?」といった楽しそうな会話を見たとき、なぜこんなチャラチャラしたやつらに負けたんだ!と自己嫌悪に落ちました。いろんな意味で反省を込めて頭を丸めたことを覚えています。
我々の代はついに花園予選が最後の大会となってしまいました。
大会前で記憶に残っているものは、洛北高校との定期戦(元加治)、ラグビー祭で目黒高校を招待した記念試合(この時は大敗し、先生に遅くまで練習させられ、あげくの果てに練習終了したらブン殴られました)、オール群馬との善戦(3-1)、草津合宿はあまりケガ人なく無事終了したこと、菅平合宿は花園優勝校の天理とこれまた3-1と善戦したことが思い出されます。
これらの試合をやっていて思ったことは、“型にはまる”“ペースに乗る”と案外強かったかもしれませんが、スロースタート、新興勢力には本当に弱かったと思います。
そして、保善歴史上、例のない花園予選が始まりました。3回戦まではまあわりと順調に勝ち上がりました。3回戦の前日、友達の家に押しかけ夜中まで騒ぎ、結構浮ついたことやっていました。練習ばかりで少しも楽しくなかったこと、どうせこれで終わりというどこか安易な気持ちがこんな行動になったと思います。みんなの代表だという気持ちはこの頃ぜんぜんありませんでした。
最後の大会なのに・・・
ベスト8をかけた試合で東京高校と対戦いたしました。東京高校は当時目黒高校と合同練習をしてかなり強くなっていました。ちなみに、共学ということもあり、少なからず女の子が応援に来ていたことも覚えています。(保善は男子校です。)
対戦前はトントンで行けるかなぐらいの軽い気持ちでした。
そんな状況で、前々日から元加治で強化合宿をおこないました。
その時にアクシデントが起こりました。NO.8のJ郎が内ゲバ中膝を故障し戦線を離脱しました。かなりの戦力ダウンを余儀なくされ、試合に臨まなくてはなりませんでした。
そして、その日がやってきました。
試合については、本当に覚えておりません。覚えているのは、0点で終わってしまったことと、やっと引退できたのだという変な満足感だけでした。3年間やったというだけの・・・
引退となり、2年生以下は元加治で練習をするというので、ちょっと遅れて練習場へ行き、ヤッケを着てOB気取りでいったことで先生の逆鱗に触れ、いきなりぶん殴られました。
引退してまで殴られたキャプテンは私くらいではないでしょうか?
その後の話
私は大学に進学希望ということもあり、推薦で行こうと思っていたこと、同期が全く後輩の面倒を見なかったことなどあり、数日後、私一人が朝練に参加し、かろうじて我々の世代の首つなぎをしたことを覚えております。
その後、先生が推薦で進めてくれたK武道大学へ進学することとなるのですが、大学の先生への事前挨拶のため勝浦へ行き一緒に頭を下げてくださったことは今でも忘れません。無事セレクションも通り、4年間寮生活をすることとなりました。
高校3年間、全国制覇を夢見て日々精進してまいりましたが、ベスト8にも入れず終わってしまったことが残念でなりません。
後輩に伝えられることといえば、
1.練習中疑問をもったらまよわず指導者へ聞くこと
2.なんのための練習か必ず確認すること(無駄な練習をする必要なし)
3.高校優勝校の人たちと大学で一緒になってもレベルは変わらない、むしろ君たちの方が上なのだという自覚を持つこと
4.過去は関係ない、自分たちの代をどうしたいかを常に考えること
5.後輩は大事にすること
以上です。
3回にわたり、私の履歴をダラダラと書きましたが、保善高校ラグビー発展のための一考になっていただければ幸いです。
追伸:当時3番をはってくれていたT村氏にこの場を借りてお礼をいいます。保善の
3番大変だったよね。当時はいろいろ言って悪かったね。一番がんばっていたよ。
あと、このHPを作成しているKOBY様!我代はあなたで持っております?



