平成2年卒 塩田勇 2年生編
1年生の冬、3年生が2回戦で敗退したことにより、以前にも増して練習が厳し
くなりました。なぜ練習が厳しくなったかは、新井先生が体調不良により勇退さ
れ、急遽小島先生(当時28歳)一人で我々の練習を見なければならなかったこ
とがありました。
古豪の名にかけてなんとしても復活しなければならないという責任からと思いま
すが、当時の私には“練習きつい”の一言でした。
キャプテンはFWの1つ上の先輩で、やはりこの人しかいないという久保田氏
が着任されました。久保田氏は大学でも『ラグビーマガジン』等に載るような
チョト有名な方で、ラグビーに取り組む姿勢については一目おいておりました。
バイスキャプテンはS氏、マネージャーはMノ氏がそれぞれ着任され、新スター
トを切りました。
両プロップは1番がNW氏、3番は2年生から出場されていたYO氏でした。
NW氏、YO氏とも東京では1・2番を争うくらいスクラムの強さではなかった
かと思いますが、YO氏についてはよく小島先生にポールや柄杓で「KIヨシ~
頭が下がっているぞ!」「背中が丸まっているぞ!」などと言われながらボコボコ
に殴られ、フッカーであった私はその振動が伝わってきたことを覚えています。
冬合宿は今まで味わったことのない、地獄の日々でした。元加治合宿で早朝、
24キロ走が毎日行われ、午後は2人1組で肩車、手押し車、抱っこ走等を延々
と行い、さらにスクラム、ラインアウトの基礎練習、内ゲバ(紅白戦)を行い終
了します。
そして、何度食べてもうまいと思わなかった?【入給(いりきゅう)←入間給食セ
ンターの略】これについては同学年の方々はいろいろ思い入れがあるのではないで
しょうか?同期のY氏は食べきれずに最後は水をかけて食べていましたからね。
また、Mお氏カリフラワー破裂事件もありました。タックルに行った際、沸いて
いた耳が破裂し、軟骨が飛び出し、救急車で運ばれました、
この冬合宿は私たちにとってかなり過酷なものでした。
冬合宿を経て、新人戦が始まりました。私はFW第一列でフッカーに入り、1年
生の新人戦から出場できることになりました。OBの方からいただいたヒモパン
をはき、(多分はいたのは私が最後ではないでしょうか?)勝つことを意識して
試合に望んだことを覚えております。
トーナメントを順当に勝ち上がり、準々決勝で目黒高校と激突しました。
試合は日大二高のグランドだったと思います。
試合は両校譲らず、0-0で前半が終わり、勝負は後半に持ち越されました。中
盤にさしかかったところ、我保善高校の攻撃で敵陣22mへ攻め込みました。
ところが、マイボールスクラムで組んだ際、首を取られ、フッキングをした所う
まくフッキングできず、ヤーボールとなってしまいました。
それがきっかけで自陣深くまで攻め込まれ、最後は目黒高校お得意のドライビン
グモールで先制トライを奪われてしましました。ゴールも決まり6-0となりま
した。
これがきっかけで試合が大きく動き、我校の猛攻で右隅にトライ6-4、さらに
攻め込み敵陣で試合をしていましたが力及ばず、6-4で無念のホイッスルが吹
かれてしまいました。
試合が終わった後はまだまだ力不足だったなあと反省はしたものの、あまり負け
たという感覚もなく家路につきました。
ところが、家に帰って風呂に入ったとたん、
「私のせいで負けた・・・」
と悔し涙があふれてきたのは今でも忘れません。
これで新人戦は終わりました。
春合宿は恒例の松戸自衛隊での合宿でした。
合宿中、相模台工業へ遠征に行った際、当時大阪でも有名になりつつあった啓光
学園が来ており、スクラムを組む3番に高校JAPANの中道氏がいました。
我校の1番NW氏がヘルニアで見学をしていたため、我々同期のI村が対面で組
みました。
ところが、I村が高校JAPAN相手に押している姿を目の当たりにしました。
「やはりこいつはすごい」と心から思いました。
しかし、試合は善戦したものの負けてしまい、小島先生から「すぐ裸になれ!」と
言われ、有名な“裸ダイビング”を全員で慣行したのでした。
夜、消毒のため、各自取り押さえられ、小島先生が胸にめがけてマキロンをおも
いきり吹き付けて喜んでいたことは今でも忘れません。
春季大会に向けて練習がますますヒートアップしてきたころ、アクシデントが私
を襲いました。それは、スクラムを組んだ際、左肩に激痛が走り、脱臼をしまし
た。幸いすぐに戻りましたがはずれた時に痛みは今でも忘れません。(この痛み
は脱臼した人にしかわかりませんよね)
その後、小島先生に毎日テーピングをしてもらいだましだまし練習しておりまし
たが、その後数度はずれ、怪我人組(当時はケンガと呼ばれていましたよね)に
まわされました。
【やっと少し休めるよ】という気持ちはケンガになった人なら誰でも経験したこ
とではないでしょうか?休めてうれしかったが、同時に筋肉トレーニングはかな
りがんばりました。
さて、春季大会ですが、順調に勝ち進み、国学院久我山高校と対戦することにな
りました。
国学院久我山高校の攻撃はFW、BK一体となった素晴らしい攻撃でした。同時にミス
をした時のカバーリングが素晴らしく、スキがなかった。
まさに完敗でした。
これで春季大会は終わりました。
2年生の夏合宿、
それはまさに地獄でした。
朝3時半に起床、白根山を登り、5時半から練習が始まるのですが、これがけっ
こう長く、走るのがとてもしんどかったことを覚えています。
グランドに行くと田んぼみたいにぬかるんだグランドを延々と走り続け、ランパ
ス、スクラム、ラインアウトで午前中が終わります。
午後はOBとスクラムを組み、内ゲバを行い1日が終わります。新しく入部した
1年生は120人ぐらいいましたが草津合宿としては昨年よりきつい練習だった
こともあり、脱走する者が続出しました。その結果、合宿終了時には10数名程
度に減っていました。
尚、私の同期(UK川氏)でも脱走者がいて、その後OBに捕まり連れ戻され、先生に林の中
へ連れていかれました。
「俺に勝ったら帰してやる」
と言われて、無謀にも勝負したが、案の定ボコボコにされました。
また、彼は中日前に走るのがつらく、うずくまっていた際、ポイントスパイクで
頭を蹴られたため頭が割れ、流血し針で縫う大怪我をしました。
当然、合宿中は白いアミを頭に巻いてケンガをしていましたが(後で聞いたので
すが家に帰った後、親父にもぶん殴られたそうです)
2年の草津合宿はいろいろありました。
※KOBY氏も過呼吸で救急車に運ばれたのこの年ではなかったですかね?
次に菅平合宿へ行き、有名な花火大会事件になるのですが、事の発端は都城高校
と練習試合を行い、当時JAPAN候補の永友氏がSHをしており、NO.8も
イカツイ体格の人がやっていて、試合でボロクソにやられてしまいした。
ちなみに、私は肩の治療のため試合に出場しておらず、久保田主将がフッカーをやっていた
と思います。
試合でボコボコにやられた後、サイドアタックの練習を都城と合同でしました、
これもボコボコに抜かれ、昼抜き(水のみ)夜まで練習しました。
当時、菅平では花火大会が開催されており、真っ暗な中、車のライトと花火のラ
イトアップで生タックルを何度も繰り返していたことを思い出します。そんな事
をやりながら夏が過ぎていきました。
花園予選が開幕しました。
怪我から復帰した私は再びフッカーで試合に出場することになりました。
組み合わせ抽選の結果、準々決勝で再び国学院久我山高校と対戦することにな
り、“今度は勝つぞ!”と練習にも精力的に取り組んだことを覚えています。
また、同期が15人中7人レギュラーで入っていたことも私の活力となりました。
いよいよ国学院久我山高校と再戦です。
前半は多少得点が離れましたが、スクラム、ラインアウト等FW戦は互角だった
と思います。
後半はやはり実力差が出て、大差にはならなかったが、完敗でした。
しかし、スクラムについては新人戦で目黒高校で味わった屈辱から考えれば久我
山高校のフッカーとは互角だったと思います。
☆ラグビーはスクラムだけではないのですが・・・
多分、当時の保善高校の一番弱いところは、
プレーにずるがしこさがなく、まじめなプレーの練習が多すぎることだと思います。
そして、3年生は引退となったわけですが、
久保田主将から「後は頼んだぞ」と言われた時、初めて私たちの代になったのだと
実感しました。



